ネットマン時代 駆け抜けて手にした宝物
1999年4月 ネットマン社を設立しました。
設立当初から、次から次へと新しいソフトウェア商品やサービスを開発しました。
一時は、社員7人で13個の商品というときもあったくらいです。
早すぎて市場に受け入れられないこともあり、
またシステムエンジニア出身の私に営業マンを育てる力量がなく、
売り上げにはいつも苦慮していました。
それでもソフトウェアはいつも先駆的なものを開発していました。
たとえば、教育にケータイを活用するITシステムは2001年から発売しました。
(でも当時はケータイ禁止。売れるはずありません。今は時代が変わり、たいへん着目 されています)
2004年には、まだ日本人がやっていないベトナムでの
オフショア開発にも着手しました。
そんな中、2005年12月出願した、”行動改善システム”が
特許をとることに成功したのです。
この商品の画期的なところはわかってはいましたが、
過去なんどもチャレンジしても取れなかった特許がやっととれたという印象でした。
弁理士の先生から送られてきた”特許証”を見るまでは、
「あっ、やっととれたのね」くらいの印象でした。
ところが、初めて”特許証”を見たとき、
足の先がぶるぶる震え涙が止まらない状況になったのです。
そこにはこんなことが書かれていました。
————–
発明の名称:行動改善システム
発明者(Inventor) 永谷研一
—————
ふっと静かに 「あっ夢が叶った。。」 と思いました。
その後は、走馬灯のように小学校2年生ときの”発明家になりたい”と思ったこと。
18歳で、受験で挫折したこと。
20代でシステムエンジニアで必死に働いたこと。
30代で会社を切り盛りしてなんとか生き抜いたこと。
よくよく考えてみたら、
サラリーマン時代もいつも独自のアイデアで仕事をしていました。
上司に直談判して、やらせてもらったり、
時には営業の考えに反して自分の考えを通したり、
お客様のためにベストと思うやり方をしてきました。
また会社を作ったあとも、独自の商品を何個も開発してきました。
そういえば大学時代もオリジナルソングと題して、
いつも自分たちの音楽を作っていたのです。
そうです。
私はまったく道を外していなかったのです。
むしろまっすぐに自分の”ありたい姿”に向かって人生を走ってきたのです。
18歳で受験を失敗したことを
いつまでも心の傷として生きてきました。
社会的に大きな仕事をやってのける人をみて、
「なんで俺じゃないの?」と恨んだこともありました。
でも違ったのです。
私は、小学校4年生のときに思ったとおりの生き方をしてきたのです。
「発明家になりたい」というのは
「自分のアイデアで新しいものを作って、みんなを喜ばせたい」
と思っていたのです。
それに気づかせてくれた”特許証”は僕の宝物になったのです。
自分のすべてを許せた瞬間だったのです。
「あー僕は僕でいいんだ。このまま、まっすぐ歩んでいこう」
そう思った41歳の夏でした。
今では、ITシステムを活用した教育改革に邁進する
幸せな日々をおくらせてもらっているんです。
終わりに。
とある大学の先生がおっしゃってくれました。
「永谷君は大学受験に成功していたら、つまんない男だっただろうねえ。」
とあるNPOの代表も言ってくれました。
「劣等感がパワーになることもあるんだよ。それを受けとめ大切にしなさい。」と。
本当そうです。ありがたい言葉です。
自分におきたすべてのことに感謝します。
ありがとう。
設立当初から、次から次へと新しいソフトウェア商品やサービスを開発しました。
一時は、社員7人で13個の商品というときもあったくらいです。
早すぎて市場に受け入れられないこともあり、
またシステムエンジニア出身の私に営業マンを育てる力量がなく、
売り上げにはいつも苦慮していました。
それでもソフトウェアはいつも先駆的なものを開発していました。
たとえば、教育にケータイを活用するITシステムは2001年から発売しました。
(でも当時はケータイ禁止。売れるはずありません。今は時代が変わり、たいへん着目 されています)
2004年には、まだ日本人がやっていないベトナムでの
オフショア開発にも着手しました。
そんな中、2005年12月出願した、”行動改善システム”が
特許をとることに成功したのです。
この商品の画期的なところはわかってはいましたが、
過去なんどもチャレンジしても取れなかった特許がやっととれたという印象でした。
弁理士の先生から送られてきた”特許証”を見るまでは、
「あっ、やっととれたのね」くらいの印象でした。
ところが、初めて”特許証”を見たとき、
足の先がぶるぶる震え涙が止まらない状況になったのです。
そこにはこんなことが書かれていました。
————–
発明の名称:行動改善システム
発明者(Inventor) 永谷研一
—————
ふっと静かに 「あっ夢が叶った。。」 と思いました。
その後は、走馬灯のように小学校2年生ときの”発明家になりたい”と思ったこと。
18歳で、受験で挫折したこと。
20代でシステムエンジニアで必死に働いたこと。
30代で会社を切り盛りしてなんとか生き抜いたこと。
よくよく考えてみたら、
サラリーマン時代もいつも独自のアイデアで仕事をしていました。
上司に直談判して、やらせてもらったり、
時には営業の考えに反して自分の考えを通したり、
お客様のためにベストと思うやり方をしてきました。
また会社を作ったあとも、独自の商品を何個も開発してきました。
そういえば大学時代もオリジナルソングと題して、
いつも自分たちの音楽を作っていたのです。
そうです。
私はまったく道を外していなかったのです。
むしろまっすぐに自分の”ありたい姿”に向かって人生を走ってきたのです。
18歳で受験を失敗したことを
いつまでも心の傷として生きてきました。
社会的に大きな仕事をやってのける人をみて、
「なんで俺じゃないの?」と恨んだこともありました。
でも違ったのです。
私は、小学校4年生のときに思ったとおりの生き方をしてきたのです。
「発明家になりたい」というのは
「自分のアイデアで新しいものを作って、みんなを喜ばせたい」
と思っていたのです。
それに気づかせてくれた”特許証”は僕の宝物になったのです。
自分のすべてを許せた瞬間だったのです。
「あー僕は僕でいいんだ。このまま、まっすぐ歩んでいこう」
そう思った41歳の夏でした。
今では、ITシステムを活用した教育改革に邁進する
幸せな日々をおくらせてもらっているんです。
終わりに。
とある大学の先生がおっしゃってくれました。
「永谷君は大学受験に成功していたら、つまんない男だっただろうねえ。」
とあるNPOの代表も言ってくれました。
「劣等感がパワーになることもあるんだよ。それを受けとめ大切にしなさい。」と。
本当そうです。ありがたい言葉です。
自分におきたすべてのことに感謝します。
ありがとう。