発明家 永谷研一 教育イノベーション 発明家 永谷研一 教育イノベーション

発明家  永谷 研一 My story 発明家への道

発明家  永谷 研一 My story 発明家への道

サラリーマン時代 物理少年が志したエンジニア

就職活動を始めようとしたとき、
なんとなく”システムエンジニア”という職業に憧れをもちました。
物理少年は、コンピュータを使ったシステムに興味をもったのです。
そして30歳になったら自分の会社を作ろうと決めていました。

そんな中、最初の会社東京電気(現:東芝テック)に入りました。
2年間工場でPOSレジの品質保証部門で働きました。
POSレジとは、コンビニエンスストアにあるレジのことです。
ハードウェアの耐久試験や品質に問題があると
生産技術と製造ラインの間に立ち、製品の品質を上げる仕事をしました。
ここで製造工場のイロハを身につけることができました。
システムエンジニアになりたかった2年後25歳で、
日本ユニシスに転職するのです。

この会社には33歳まで8年在籍しましたが、それはそれは必死に良く働きました。
製造システム部門に配属され、
大手企業の工場の生産管理システムの開発を行っていました。
自分の考えたシステムで、製造指示が行われ、
大きな工場が動くのですから責任重大です。
MRPなど知識がまったくないのに任せられるのですから、
朝から終電まで働くのは当たり前で、空いた時間にも必死に勉強をしました。

数年後には、生産管理システムなら俺に任せろと会社で言えるようになったのでした。

システムもお客様のいいなりで作ったわけでは在りません。
ニーズも取り入れながら自分として理想の工場とはこういうものだ。
利益を上げる工場はこういうものだ。
中間在庫の取り扱いはこうすべきだ。
という意見を積極的に工場長や生産管理部の方々に提言したものです。
今から考えたら、かなり生意気ですね。
よくもまあ素人の20代の若者の提案に、
お客様も耳を傾けてくれたものだと感謝しています。

壁にも多くぶつかりました。
でも会社の上司は助けてくれた記憶がありません。
どうしてもとある設計ができないテーマがあり上司に相談に言っても、
「んー永谷。頭から煙が出てないぞ。もっと考えろ」
といって突き放されるだけ。
自分がなんとかするしかないんだと、奮い立ったものです。

頼りない私を育成してくれたのは、この会社の厳しい環境だったのです。
(後から聞いた話ですが、会社の上層部は、
『永谷は自由にやらせたほうがいい仕事するから、細かいこと言うな』
と話していたそうです。なんとも暖かい話です。)

33歳になったとき次年度から部下ができるのは明白でした。
仕事はとても楽しくチャレンジさせてもらっていたので続けるか悩みましたが、
大学を出たときに決めた自立の道を選ぶことにしました。
部下がいる立場になったら勝手に辞められないだろうと思ったからです。

(つづきます)