発明家 永谷研一 教育イノベーション 発明家 永谷研一 教育イノベーション

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    今だからこそ人に語れる、恥ずかしくも、誇らしい私の歴史です。

    何かの参考になればと思い、私の歩んできた道、葛藤、苦しさ、喜びを「自己開示」して、ここに綴ります。
    そしてこれは、この年齢になった今だから書けるんだと思います。いつでも、その時はその時なりに、私は一生懸命だっただけなんだと。
    これからの社会を担うあなたへ。

    第1回 幼少時代〜将来「発明家」になりたい〜

    小学校4年のときに言いました。

    『将来、発明家になりたい』

    きっかけは、”池の中覗き器”でした。学校の中庭にあった池の中で泳ぐフナを観察したかった私は、ジュースの缶のフタと底くり貫き5個ほどつなげ望遠鏡のような形を作り、先に豆電球をつけ、直列でつないだ単一の電池と細い電線でつないで作りました。

    この”池の中覗き器”が発明工夫展で賞をもらったことがきっかけで、発明家になりたいと思ったのでしょう。

    夜釣りが好きだった父親の道具箱にあった電球と大量の電池。電池を何個もつなげるとより明るく光るのが楽しくて遊んでいただけ。今から考えると単なる手作りオモチャですが、それがその後の私の人生を決定付けるとは思ってもみませんでした。

    ラジコンカーが好きでした。友達よりも早く走らせたいために、モーターを分解し、コイルを巻きなおし、磁石と内枠の間に新聞紙を挟み、コイルとの距離を縮め、スーパーモーターを手作りました。自分のラジコンカーがビューっと高速で走ったときはなんともうれしかったものです。

    小5になると、ハム無線の試験を受けたくなり、問題集買いました。理由は、近所のおじさんの部屋に無線の機械がたくさんおいてあり、「CQ,CQこちら・・」と交信するおじさんが”かっこいいな~。”と思ったからです。
    何回も何回も国家試験の問題集をやるものですから、試験問題を暗記してしまいました。抵抗と電流と電圧の問題がでたら、電圧だったら掛ければよく、電流だったら割ればよいと勝手にあみ出しました。中学に入ってオームの法則を教わったときは、「えっ?もっと早く教えてもらえば、楽だったのに。」と思ったのを覚えています。

    そんな理科好き少年は、勉強でも、数学と物理は大得意。いい大学に入り、将来研究者になるんだ。と思っていました。高校では具体的に”半導体の技術者になって、つくばにある研究所で働きたい”と夢を思い描いていました。

    そんな夢は、たった一回の失敗で絶たれました。

    共通一次試験(現:センター試験)の一日目の数学Ⅰ。当然200点満点を楽勝でとることを想定していた私は、ルート2の2乗がとけず、108点しか取れなかったのです。ルート2を何桁まで覚えられるか競争していた私はなんと20桁をひたすら掛けていたのです。
    馬鹿ですよね。時計を見ると時間がかなり進んでしまっていた。『あっ200取れない。』って思った瞬間から記憶がないんです。ようはテンパッたってことですね。

    この煩悩の数字108.毎年年末になるとみんなが鐘をつく。。私は毎年大晦日にこの悪夢を思い出すことになるのです。以降心の奥では、劣等感のカタマリで生きていかねばならない人生となったわけです。

    (つづきます)

    つづきは下記リンクよりお読みいただけます。

    第2回 学生時代〜手を差し伸べてくれた友人たち〜

    第3回 サラリーマン時代〜物理少年が志したエンジニア〜

    第4回 ネットマン時代〜駆け抜けて手にした宝物〜